「電卓を叩けば、それが損だとわかっている。でも……」
前回の記事で、「冷静な電卓(標準的な経済学)」を手に入れました。しかし、実際にその通りに行動できる人は稀です。
- 老後のために貯金すべき(正解)なのに、今の遊びに使ってしまう。
- 暴落して損切りすべき株(正解)なのに、「いつか戻る」と祈って持ち続けてしまう。
- 必要ない商品だけど、「本日限り半額」と言われて(不正解)つい買ってしまう。
なぜ、こうも非合理な選択をしてしまうのでしょうか? それは、私たちがロボットではなく、「進化の過程で身につけた『直感』や『感情』という色眼鏡(バイアス)」を通して世界を見ているからです。
行動経済学は、この**「人間特有の思考のクセ(バイアス)」**を研究し、それを逆手に取ってより良い生活を送るための学問です。
判断を歪める、代表的な「3つの色眼鏡」と、その対策(ナッジ)を紹介します。
「損失回避性」:1万円拾う喜びより、1万円落とす苦しみの方が強い
人間には、**「利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛の方を大きく(約2倍)感じる」**という性質があります(プロスペクト理論)。
【具体例】損切りできない投資家
あなたは100万円で株を買いました。しかし、暴落して現在は80万円の価値しかありません。
- 冷静な電卓の判断: 「今後上がる見込みがないなら、今すぐ売って80万円を回収し、他の有望な株に投資すべきだ」
- 色眼鏡(損失回避)の反応: 「今売ったら20万円の『損』が確定してしまう! それは嫌だ! 持っていれば戻るかもしれない!」
【解説】 人間は「損が確定する」ことを極端に恐れます。その結果、ズルズルと保有し続け、最終的に紙切れになるまで抱えてしまう(塩漬け)のです。 「期間限定セール」や「残りわずか」という言葉に弱いのも、「今買わないと、チャンスを失う(損をする)」という恐怖が刺激されるからです。
【日常生活での対策】
- 投資: 買う時に「いくら下がったら機械的に売る」という「逆指値注文」を入れておく。感情が介入する隙をなくします。
- 断捨離: 「これを捨てるのはもったいない(損失)」と考えるのではなく、「これを捨てれば、部屋のスペースという『利益』が得られる」と言い換えてみましょう。
「現在バイアス」:将来の大きな利益より、目の前の小さなケーキ
人間は、**「将来の価値を不当に低く見積もり、目の前の快楽を優先してしまう」**生き物です(双曲割引)。 アリとキリギリスの話で言えば、私たちの脳は基本的にキリギリス仕様です。
【具体例】夏休みの宿題とダイエット
- 夏休みの宿題: 7月の時点では「毎日コツコツやろう」と思います。しかし、いざ机に向かうと「今日は遊んで、明日やろう」となります。未来の楽(宿題が終わっている状態)よりも、現在の楽(遊ぶこと)が勝つからです。
- ダイエット: 「夏までに5kg痩せる」と決めたのに、目の前のケーキを見ると「明日から頑張ればいいや」と食べてしまいます。
【解説】 脳にとって「将来」はイメージしにくく、「現在」は強烈なリアリティを持っています。 冷静な時には「将来の健康」を選べますが、誘惑が目の前にあると、脳の直感システムが暴走して「今の快楽」を選んでしまうのです。
【日常生活での対策:コミットメント(自分を縛る)】
意思の力に頼ってはいけません。意思は無力です。
- 貯金: 給料が入った瞬間に、自動的に別口座に移される「天引き貯金」にする。使うという選択肢自体を消します。
- 勉強・運動: 「サボったら友人に1万円払う」と宣言する。現在バイアス(今の楽)に対抗するために、損失回避(1万円失う恐怖)を利用する高等テクニックです。
「アンカリング効果」:最初の数字が、あなたの金銭感覚を狂わせる
人間は、**「最初に提示された数字(アンカー=錨)を基準にして、その後の判断を行ってしまう」**クセがあります。
【具体例】二重価格のトリック
家電量販店で、以下の2つの値札があったとします。 A. 「販売価格 5万円」 B. 「メーカー希望小売価格 10万円 → 50%OFF 5万円」
全く同じ5万円の商品ですが、多くの人はBを「安い!お得だ!」と感じてしまいます。
【解説】 Bの場合、最初に見た「10万円」という数字が脳にアンカー(錨)として突き刺さります。 その10万円を基準に考えるため、5万円が「ものすごく安い」と錯覚するのです。 高級レストランのメニューで、一番上に「1万円のコース」が載っているのも同じです。それを見ると、その下の「5000円のコース」が手頃に見えてくるのです。
【日常生活での対策】
- 買い物: 「〇〇%OFF」という文字を指で隠して、最終価格だけを見ます。「この商品に5万円の価値があるか?」と、電卓(標準的な経済学)だけで判断します。
- 給与交渉・価格交渉: 交渉事では、**「最初に希望額を言った方が勝つ」**と言われます。高い金額を最初に提示すれば、相手はその金額に引きずられ、そこを基準に交渉せざるを得なくなるからです。
解決策:「ナッジ」で直感を味方につける
ここまで読むと、「人間の脳は欠陥だらけではないか」と絶望するかもしれません。 しかし、行動経済学には**「ナッジ(Nudge:肘で軽くつつく)」**という希望の概念があります。
ナッジとは、**「バイアスを無理に直そうとするのではなく、バイアスを利用して、自然と良い行動ができるように設計すること」**です。
良いナッジの例
- レジ前の足跡マーク: 「並んでください」と書くより、床に足跡のシールを貼るだけで、人は無意識にそこに立ちます。
- 小さいお皿: ダイエットの意志を貫くより、自宅の食器をひと回り小さく買い替えてください。目の錯覚(デルブーフ錯覚)で、少ない量でも満腹感を感じやすくなります。
- デフォルト(初期設定): 書類の「臓器提供をする」という欄に、最初からチェックが入っている国と、入っていない国では、提供率に天と地ほどの差が出ます。人は「現状維持バイアス(変えるのが面倒)」を持つため、良い選択肢を「デフォルト」にしておけば、努力せずに良い結果が得られます。

まとめ:自分の「色眼鏡」に気づこう
行動経済学が教えてくれるのは、**「私たちは自分の行動すら、完全にはコントロールできていない」**という謙虚な事実です。
- 損を恐れすぎていないか?(損失回避)
- 今の快楽に負けていないか?(現在バイアス)
- 最初の数字に騙されていないか?(アンカリング)
何かを選択する時、ふと立ち止まって「あ、今私の脳はバイアスのかかった色眼鏡で見ているな」と気づくだけで、世界の見え方は変わります。
そして、自分の意志の弱さを認めた上で、「貯金の自動化」や「お皿のサイズ変更」のような、**努力不要の仕組み(ナッジ)**を生活に取り入れてみてください。
さて、ここまでで「自分の損得(標準的な経済学)」と「自分の心理(行動経済学)」については見えてきました。 しかし、ビジネスや人生は自分一人では完結しません。必ず「相手」がいます。
次回は、一筋縄ではいかないライバルや交渉相手とどう戦い、どう協力するか。ビジネスパーソン必須の武器、**『ゲーム理論(勝負の戦略書)』**について深掘りしていきます。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。


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