時々、ランニングを続けていると「今日はウォーキングに切り替えようかな」と思う朝がある。体調がイマイチで、気分が乗らない時もある。そんな時は潔く変更する。それは、私にとって「身体を動かす時間」を「思考を動かす時間」へとシフトさせる、大切なスイッチだ。
いつもならお気に入りの音楽を聴きながら歩くのだが、時折、イヤホンをすることさえ忘れて「無」の状態でスタートすることがある。
何かを考えようと力んでいるわけではない。ただゆったりとした気持ちで、景色を眺めながら一歩一歩歩き始める。すると、不思議なことに頭の中の記憶がひとりでによみがえってくる。
脳内の「空席」に降ってくるもの
「あの件はどうなっただろう」「これはいつまでにやったらいいか」 そんな日常の断片が浮かんできたかと思えば、不意に、まるでひらめきが舞い降りたように「そうか、そういうことだったのか!」と納得が訪れる。あるいは「よし、あれに挑戦してみよう」と新しい扉が開くこともある。
この、ただ歩いているだけなのに中身がきわめて濃密な時間を、私は**「ひらめきウォーキング」**と呼んでいる。
ふと考えてみれば、かつての偉人たちも同じような時間を過ごしていた。 アリストテレスの学派が「逍遥(歩き回る)学派」と呼ばれたように、古くから「歩くこと」と「考えること」は分かちがたい関係にあったのだ。ニーチェは**「本当に偉大な考えは、すべて歩くことから生まれる」**と断言し、ベートーヴェンは散歩中に浮かんだメロディを逃さぬよう、常に楽譜のメモ帳を手に歩いていたという。
帰宅するなり、すかさず思いついたことをメモに残す私の習慣も、彼らと同じだと考えれば、なんだか少し誇らしい気持ちになる。

かつて、私の思考は「短距離走」だった
現役時代の自分を振り返ると、今のような時間は到底持てなかった。 営業職として駆け回っていた頃、私の脳内リソースは常に仕事の案件で「満席」だったのだ。
朝は定刻の電車に飛び乗り、職場へ行けば会議の連続。移動中の車内やランチ後のわずかな隙間だけが、かろうじて思考を巡らす時間だった。しかしそれは、あくまで目の前の課題を処理するための「短期的な思考」に過ぎない。
当時は、数年先を俯瞰するような「長期的な思考」のための座席が、脳の中に一席も空いていなかったように思う。あの忙しさを否定するつもりはない。責任を果たしてきた日々があるからこそ、今の自由があるのだ。ただ、「ある程度の時間が確保されなければ、納得のいく発想は生まれてこない」という事実に、私は今ようやく気づかされたのだ。

珈琲の香りと、時間を支配する喜び
散歩を終え、メモを書き留めた後の「コーヒータイム」は、私の朝にとって最も大切な、至福の儀式だ。
気になることを調べ、やりたいことに想いを馳せる。
- 熱中する時間
- 集中する時間
- ゆったりくつろぐ時間
かつては時間にコントロールされていた私が、今は時間をコントロールしている。 「ただの散歩」を「自分との会議」に変え、一杯の珈琲でその日の自分を整える。この主体的なリズムこそが、人生の後半戦における最高の贅沢であり、新しい挑戦へのエネルギー源なのだ。
明日の朝、もしあなたがイヤホンを置いて歩き出したなら、そこには偉人たちと同じ「新しい自分」との対話が待っているかもしれません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。

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